気づけば、社内でイラレを使う人がほとんどいなくなった。
以前は、ポスターを作る人向けにイラストレーターの講義をしていた。でも、やっぱりイラレは難しい。ポスターづくりが苦手な人にとっては、まず操作を覚えるだけでも大変で、講義を受けたからといって急にうまく作れるわけでもない。
苦手だった人が、いちばん変わった
そこへ画像生成が出てくる。
勉強会でも取り上げてみると、参加者の中に、ポスターづくりをかなり苦手にしている人がいた。その人が画像生成を使い始めると、作るものが目に見えて変わる。イラレであれだけ苦労していたのに、出来上がったポスターは明らかにこちらのほうがいい。
ポスターづくりが苦手だった人が、ここまで作れる。それが素直にうれしい。これは、みんなにも見てほしい。
本人にも「こんなに簡単に作れます」と話してもらうことにした。その人が作ったポスターを見せながら、どうやって作ったのかを本人の口から話してもらう。聞いている人たちの表情も、かなり真剣だ。
教えた人が、また誰かに教える
それから、社内に貼られるポスターが少しずつ変わっていく。廊下や掲示板で見かけるたびに、「あ、これもAIだ」とわかる。作った人に聞いてみると、私の勉強会に来た人から使い方を教わったという。
私が教えた人が別の人に教え、その人がまた誰かに教える。直接話したこともない人のところまで、使い方が届いている。
いちばん見せたい人は、もう来ない
ところが、勉強会に人が集まるようになったかというと、そうでもない。
最初に大きく変わったあの人も、ここ半年ほど来ていない。これで3回続けて欠席。本人は「忙しくて」と言う。本当に忙しいのか、それともほかに理由があるのかはわからない。
それでも、新しいものを見つけると、その人に見せたくなる。
この前、人物のポーズを指定して画像を作る簡単な方法を見つけた。自分で適当にポーズを手書きすれば、汚い絵でもそれなりに同じ姿勢にしてくれるが、もっと簡単なのは、AIで「こういうポーズ」の画像を探し、それをお手本として渡す方法だ。
このやり方で、あの人はどんなポスターを作るだろう。また急にうまくなって、周りを驚かせてくれるかも。
正直に言うと、本人に使ってほしいだけでなく、その人がもう一度変わるところを見て、自分が勉強会で教えていることの価値も確かめたい。
その日の参加者は5、6人。始まる前に、来ている人の顔をひと通り見てみる。今日は来るかもしれないと、少し期待する。
でも、あの人はいない。ほんの少し、力が抜ける。
勉強会が始まれば、来てくれた人たちと一緒に試しながら話すので夢中になる。「こうしたらどうなる」「こっちのほうがいい」と言いながら試す時間は、普通に楽しい。その場では、それで十分だ。
でも、翌日になると、また少し引っかかる。見せたかったな。今回も来なかったということは、もう来ないのかもしれない。
それでも、教えたことは誰かの中で生きている
もちろん、勉強会で紹介したことが使われていないわけではない。
以前、通勤中に音声入力でAIへいろいろ聞く方法を紹介したことがある。あとから「今もやっています」とか、「こういう質問をすると結構使えますね」と声をかけてもらった。
教えたことは、その場限りでは終わっていない。私の見えないところで、それぞれの仕事や生活の中に入り込んでいる。
ただ、自分としては、一度教えて、それで終わりにしたいわけではない。新しいものが出てきたら、また何人かで集まって試す。そこでできるようになった人が社内で先に使い、その様子を見た人が真似をする。また次のものが出てきたら、もう一度集まる。
たぶん私は、そういう流れが続いてほしかった。大勢に来てもらえれば、もちろんうれしい。でも、それ以上に、一度一緒に面白がった人とは、その先に出てきたものも一緒に試せると、勝手に期待していた。
うまくいったのに、少し寂しい
実際、教えたことは勉強会の外へどんどん広がっている。社内でイラレを使う人は、もうほとんどいない。
勉強会はうまくいっている。ここまで広がれば、うれしい。やってきた意味も、ちゃんとあった。
それなのに、次に見せたいものができたとき、最初に顔が浮かんだ人はそこにいない。うまくいったのに、少し寂しい。
まあ、そういうものなのだろう。
もしまた来たら、とりあえずあのポーズ生成を見せよう。続きは、そこからでいい。

